9月22日(火)に放送されたBSフジ LIVE プライムニュース『五輪エンブレム再公募 誰がつくり誰が決める 創作と模倣の境界とは』を見ました。
現在は、ハイライトムービーは見られませんが、テキストアーカイブにおいて、その内容を確認することができます。

ここでは、国民的な議論を巻き起こした2020年東京五輪エンブレム問題について、俳優でタレントの松尾貴史さん、国際日本文化研究センター教授の山田奨治さん、弁護士の福井健策さん、そして、キャスターの秋元優里さんと反町理さんがお話をされています。

その中の『創作と模倣の境界とは?』というテーマにおいて、日本文化研究センター教授の山田奨治さんが、以下のような非常に興味深いお話をしています。

「歴史が積み重なっていくとある分野での表現というのはどんどん出尽くしていって、蓄積が多くなっていくわけです。そうすると、表現の出てくる幅というのがどうしても狭くなってくるわけです。かつて和歌だとか、江戸時代の俳諧だとかというものを見ると、そういう状況が生まれているんです。歴史が積み重なるにしたがって新しいものが出にくくなると。そういう時にどう考えたかというと、作品の類似というものを、表現の類似と趣向の類似に分けて考えるようにしたんです。たとえば、松尾芭蕉と、その弟子の向井去来は、表現も趣向も類似しているものはダメだと。ただし、表現は似ていても、趣向が違っていれば、別の作品と考えよと論じています。つまり、表現は似ていてもいいと。ただし、趣向やアイデアやコンセプトまでは同じものはダメだと。こういう考え方を、もっと我々は振り返ってみてもいいのではないかと思います。つまり、趣向の違いを嗅ぎ分ける。表現上、似たものの奥にある趣向の違いを嗅ぎ分けるということを楽しむというわけです」

要約すると、「江戸時代の俳諧では、表現の類似は良いが、趣向(アイデアやコンセプト)の類似は良くない。」ということになると思いますが、この話は、初めて知りました*1
これは、著作権法による保護のあり方と全く逆ですね。

この点について、反町キャスターが、福井弁護士に次のような質問をしています。

反町キャスター
「福井さん、表現と趣向の違いを嗅ぎ分けるという、この話というのは、法律の世界においてはアリなのですか?特に国内的にアリなのか、なしなのか。国際的にアリなのか、なしなのか。そこはどう見たらいいのですか?」
福井氏
「著作権の世界でも趣向をコンセプトと言い換えるならば、表現とコンセプトやアイデアの区別というのはすごく重要です。その前提として、先ほど、反町さんが、どう考えればいいでしょうかと言われた。それって、私はバランス論だと思うんです。それで、先ほど出ている通り、我々の文化や文明にはどうしても模倣という要素は必要ですよね。それがないと我々の文化は必ず停滞するし、失速します。しかし、一方においては、人が苦労してつくり出すという営みは営々としてあるわけで、それを丸々、言ってしまえば、パクッてしまい、それで稼いでしまう人。典型的に言うと海賊版ですね。これがどんどん行っては困る。これは事実です。オリジナルは一定程度、保護しなければいけないというか、保護するべきだという立場に我々は立っている。つまり、模倣の自由をある程度認め、社会の自由さを認めていく一方で、オリジナルを守ってやる。このバランスをどうとっていくかです。今回の問題だって、いろいろ言いながら、要するに、バランス論だと思うんですよ。バランスをとるために、著作権とか、そういう法制度はいくつかのセーフガード。いかにバランスをとるのかという仕組みを持っています。たとえば、そのうちの1つは、ありふれた定石的な表現というのは独占させない。人の作品の中でもその中のありふれた要素や、定石的な一文を借りてくるのは構わない。なぜなら、そんなものを独占させたら、新しい文章を誰も書けなくなっちゃう。それから、実を言うと、作品を見た時にそこからアイデアを借用するのは構わないよというのが、現在のセーフガードになっているんです」
反町キャスター
「アイデアを借りるのは模倣ではないのですか?」
福井氏
「法律上のセーフガードは、アイデアは自由です」

反町キャスターから「表現と趣向(アイデアやコンセプト)に分け、表現の類似は問題ないが、趣向(アイデアやコンセプト)が似ているのは問題」という既存の著作権法の枠組みとは真逆の考え方についてコメントを求められた福井弁護士は、回答に困ったのではないでしょうか*2

この話を聞いていて、改めて、今回の2020年東京五輪エンブレム問題について考えてみたのですが、そもそもこの問題は、著作権侵害だとして騒ぎになったわけではなく、単に「パクリ」ではないかということが問題になったように記憶しています*3
そこに法律家が参加してから、商標権侵害かどうか、著作権侵害かどうか、という話がでてきたのではないでしょうか?

つまり、何が言いたいのか?というと、この問題に対する一般の方々*4の反応は、「パクリは良くない。他人の作品の表現、アイデア、コンセプト等を借用したにもかかわあず、あたかも自分だけで創作したオリジナルの作品だと言うのは良くない。そのような作品を東京五輪のエンブレムに採用すべきではない。」ということであり、それが著作権や商標権を侵害し、法律上の損害賠償や差止請求、さらに刑事罰の対象にすべきだとまでは言っていないのではないでしょうか*5

このことは、反町キャスターの以下のような質問と、それに対する福井弁護士の回答にも表れているように思います。

反町キャスター
「そこで著作権なり、何なりを認める、特許でもいいです、認めることによって最初につくった人の独創性を守る。そこに金銭的な費用負担を発生させることによって、独創性や想像力というものを守るのが法律ではないのですか?」
福井氏
「そこに今度、著作権の強さという問題が出てくるわけです。著作権というのは、期間がすごく長く、最初のクリエーターの生きている間の全期間、及び死後50年間。現在、アメリカ、ヨーロッパだったら、死後70年。合計100年ぐらいその作品を独占させる制度です。幅もとっても強いので、ほぼほぼ後続者は公には使えなくなります。もし今言ったストップモーションアニメーションというのを100年間独占させて、その人が狭量な人で他の人には認めないと。遺族が出てきて、とてもではないけど、お金を積んでもらえないのだったら他の人には認められないと言ったら、100年ストップモーションアニメーションは進化が止まるんです」

反町キャスターは、「著作権で保護して欲しい、それも、著作者の死後50年間、著作権法上認められている権利によって、その結果、差止請求、損害賠償請求等がされるべきだ。」などと言っているわけではなく、何らかの適切な保護はないのでしょうか?という趣旨の質問だったように思います。

このように、今回の問題は、一般の方々が、いわゆる「パクリ」に対する日本的な問題意識を素直に示したと見ることもできるのではないでしょうか。
これは、日本の伝統的な価値観から考えたときに、多くの人々がこれはおかしいと感じた、と言い換えても良いと思います。
それに対して、法律の専門家が、もちろん、法的には正しい発言ではありますが、今回のような「パクリ」に対して、商標権侵害かどうか、著作権侵害かどうかという、既存の、それも輸入された、もしかすると日本にはまだ根付いていない法的な価値観にだけに基づいて、 『保護をすべきではない。』という判断をしてしまったのではないでしょうか。

私自身もそうなのですが、日々、法律に触れ、法律の枠組みを使って考え、そして、判断することは、ときに自分の視野を狭め、本当に必要な社会の仕組みや制度を考えることをやめてしまったいるのではないでしょうか。
法律はこうだから、法的にはこう考えるのが正しい、という理由を掲げるのみで、単に思考停止に陥っているのではないか、自省する必要があるように思いました*6

かといって、今さら、著作権法の考え方(解釈)を事態を変えて、著作権法は、表現ではなく、趣向(アイデアやコンセプト)を保護すべきとする必要はないと思います。

ただ、新しい保護のあり方も考えるべき時期に来ているように思います。

例えば、希望は天上にありの弦音なるよさんは、五輪エンブレム問題にみる「著作者の人格的利益」の今後において、以下のような趣旨の考えを示されています。

〇 五輪エンブレム問題は、著作財産権の問題というよりは、著作者の人格権的利益を尊重しなかったことに対する非難である。
〇 私も知的財産権による独占には反対の立場で、発明や創作物はなるべく早い段階でオープンにされ、広く社会に利用されて、次なる創作を生むべきだと考えている。しかしながら、例えば他人の創作物をあたかも自分が生み出したように振る舞い、名誉まで盗用することは許されるべきではない。
〇 21世紀にも著作者の人格的利益*7は尊重される。

詳細は、弦音さんの記事をお読み頂きたいと思いますが、私自身は、これは示唆に富んだ検討に値する考えだと思います。
このような考え方は、上記の反町キャスターの質問に答える、新たな試みだとも思います。

私は、このような考え方には、従来の著作権法とその解釈を超えた新しい規範を生み出すことが、一般の方々の認識にあう、という趣旨の主張が含まれているように感じました。
そして、著作権法とその解釈を超える考え方なのであれば、著作権法と同様の保護を与える必要はありませんので、その効果は柔軟に制度設計することができると思いますし、著作権法の強さというものをあえて強調する必要もないように思います*8


<脚注>
*1 私自身、芸術や文化に関する素養は足りないと思いますが、特許訴訟において、裁判官や弁護士に技術的素養が必要と言われているように、著作権訴訟においても、芸術や文化に関する素養が必要だと思います。技術は、良く積み重ねだと言われますが、芸術や文化も同じで積み重ねはあります。これまでの芸術や文化の発展の歴史を知らずに、つまり、芸術や文化の素養なくして、法律的な観点からのみ、正しさを語るのは、もう止めにした方が良いように思います。
*2 というのも、福井弁護士は、「バランス論」という少し質問からずれた回答をしているように感じましたが、私だけでしょうか。
*3 私の記憶違いだったら、ごめんなさい。。。また、『パクリ』の定義もなされないまま、法律家が参加した議論がされたことも、この問題の本質を見えなくしてしまったように思います。
*4 ネット上でコメントをする方々が、一般的かどうかという問題はありますが、ここでは一般的な方々であると仮定します。
*5 少なくとも、そのようは法的効果が生じることを認識して、著作権や商標権を侵害する、だから、使用をやめるべきだ、という判断をしたわけではないように思います。
*6 『法的安定性』の重要性は認めますが、法律は、やはり、ひとつの手段であり、それも人々が幸せに生きるためのひとつの手段に過ぎないのですから、一般人の感覚を不勉強であると一蹴せずに、そこにある一般人の感情に配慮しながら、解釈論だけでなく、立法論的な解決も考えるべきだと思います。
*7 弦音なるよ氏は、『なお、「著作者人格権」というと日本では上記3つの権利(公表権、氏名表示権、同一性保持権)を指すことになるが、以下ではそれよりも広い概念としての「著作者の人格的利益」全般の意味合いでこの言葉を使いたい。』として、いわゆる著作者人格権よりも広い概念として、「著作者の人格的利益」という言葉を使用しています。
なお、著作権法60条は、『(著作者が存しなくなつた後における人格的利益の保護)
第六十条  著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。 』としています。
*8 私の経験および感覚的には、もう既に、裁判所は、著作権に様々なハードルを課して、著作物性は認めつつも、著作権侵害は認めない、仮に、著作権侵害を認めてもその損害賠償を低額に抑えるなど、著作権の効力を弱めており、著作権は、弱い権利になっていると思います。