前回の続きで、今回は、GREE v DeNA 釣りゲーム訴訟の知財高裁の判断から、どうして著作権が弱い権利になってしまったと感じたのかを説明してみたいと思います。


今回の一連の判決に関する論評等を見ていると、著作権は表現を保護するがアイディアは保護しないというアイディアと表現の二分論を前提に、GREEの「釣り★スタ」とDeNAとORSOが出した「釣りゲータウン2」の類似点が、東京地裁では表現と判断され、知財高裁ではアイディアと判断されたため、両判決の結論に差がでたというものがいくつかありました。
基本的に、このような論評は正しいと思いますし、著作権侵害か否かを判断するにあたってアイディアと表現の二分論を前提に判断をすることも正しいと思います。

ただ、今回の知財高裁の判決では、アイディアと表現を区別する際に、以下のような判断手法を採用し、それを正当なものとしています。
(そして、ネット上の記事では、この点(と次回の争点)にふれているものは、私が見た範囲ではほとんどないように思います。)。

『第1審原告は、個々の要素がそれぞれバラバラでは表現上の創作性を有しない場合でも、複数の要素が全体として表現上の創作性を有することがあるから、一つのまとまりのある著作物を個々の構成部分に分解して、パーツに分けて創作性の有無や、アイデアか表現かを判断することは妥当ではないと主張する。
しかしながら、著作物の創作的表現は、様々な創作的要素が集積して成り立っているものであるから、原告作品と被告作品の共通部分が表現といえるか否か、また表現上の創作性を有するか否かを判断する際に、その構成要素を分析し、それぞれについて、表現といえるか否か、また表現上の創作性を有するか否かを検討することは、有益であり、かつ必要なことであって、その上で、作品全体又は侵害が主張されている部分全体について、表現といえるか否か、また表現上の創作性を有するか否かを判断することは、正当な判断手法ということができる。』

上記の知財高裁が正当であるという手法で判断した場合、著作権侵害が認められるのは具体的にどのようなケースなのかが、私には分かりませんでした。
つまり、第1審原告(=GREE)は、『一つのまとまりのあるの著作物と認定されるなら、それをさらに個々の構成部分に分解して、パーツに分けて創作性の有無を判断すべきではない。」と言っています。
これは当然だと思います。
例えば、「古池や かわず飛び込む 水の音」という俳句が全体として一つの著作物として認められたとします。
この著作物と「古池や かえる飛び込み 水の音」という俳句とで著作権侵害の有無が争われた場合に、一つのまとまりのある著作物を「古池」「や」「飛び込む」「水の音」という構成部分に分解して、パーツに分けて、そのパーツについて創作性の有無を判断するなら、いずれもありふれた表現となり、この点が類似しているだけでは著作権侵害は成立しないとなってしまい、このような結論を導く判断が手法が正当とは到底思えないからです。

ところが、知財高裁は、上記のような判断手法は『著作物の創作的表現は、様々な創作的要素が集積して成り立っているものであるから、原告作品と被告作品の共通部分が表現といえるか否か、また表現上の創作性を有するか否かを判断する際に、その構成要素を分析し、それぞれについて、表現といえるか否か、また表現上の創作性を有するか否かを検討することは、有益であり、かつ必要なこと』としています。
しかしながら、このような手法では上記の俳句の例からも分かるとおり著作権侵害が成立するケースはなくなってしまうように思います。
仮に、この手法によっても著作権侵害が成立するとした場合は、それは、どこかの時点で著作物をそれ以上分解させずに、その部分に創作性があると判断することが必要です。そうでなければ、すべて創作性の認められないありふれた表現やアイディアとなってしまうからです。
そして、このように判断される可能性は十分にあると思います。何故なら、知財高裁は、「構成要素毎に分ける際の基準」を示していないからです。
つまり、知財高裁が正当だとした判断手法は、結局のところ、著作権侵害を認めたくなければ著作物をさらにその構成要素毎に分解し、著作権侵害を認めたければ著作権侵害が成立する範囲よりも小さい構成要素への分解を認めないということを言っているのであり、結論ありきの恣意的な基準だと思います。

以上から、現状、裁判所(知財高裁)は、デッドコピーのようなケースでない限り、一つのまとまりのある著作物でさえ、個々の構成部分に分解して、パーツに分けて創作性の有無を検討するため、著作権侵害が成立するケースは、ほとんどないという結論を導くことができる判断手法を採用していると言えます。
このような裁判所(知財高裁)の判断の根底には、著作権の保護期間が創作から著作者の死後50年間(法人著作の場合、公表から50年間)と長期となることから、その弊害を避けるための価値判断があるように思えます。
なんとなく、知財高裁(というか高部裁判長)は、MYUTA事件判決(著作権侵害肯定)への批判・反論から極端に振れてしまったように思えるのですが、これは穿った見方なのでしょうか。